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名古屋大学名誉教授

YOSHINAO KATSUMATA - 勝又 義直

勝又 義直 - 写真

名古屋大学名誉教授
 

PROFILE

1969年、名古屋大学医学部卒業。1972〜74年、米国スタンフォード大学留学。1986〜2006年、名古屋大学医学部教授(法医学)。2006〜08年、科学警察研究所長。現在、名古屋大学名誉教授、名古屋医専校長。その間、名古屋大学医学部倫理委員会委員長、名古屋大学医学部長、日本法医学会理事長などを歴任。
現在までに行った司法解剖は約870本、その他の鑑定約50件(半数がDNA鑑定)。
専門はDNA鑑定、生命倫理学、法医病理学、法医中毒学。

命を救う医療と対照的な法医学、しかし貢献度は大きく、やりがいある学問です。命を救う医療と対照的な法医学、しかし貢献度は大きく、やりがいある学問です。

私が医療人を志した理由

名古屋大学医学部時代

名古屋大学医学部時代

父が開業医でしたので、その姿を子供の頃からずっと見て育ちました。母は薬局の手伝いをしていて、それを私が手伝うみたいな感じで薬を包んだりもしていました。いつしか自然に医学を志すようになり、大学では医学部へ進みました。ところが医学部3年生のとき、右の肺に結核が見つかり、1年休学しました。初期症状は咳や痰が出るくらいでしたが、あまりに長引き、レントゲンを撮ると肺に空洞があるとわかり、びっくりしました。父も含め、周りに医者が多いにも関わらず、病気を見つけられなかったことがみんなショックで(笑)。

しかも一時期は薬がほとんど効かず、調べてみたら、耐性菌という菌が原因でした。当時ストレプトマイシンという特効薬はあったのですが、それに対して耐性のある菌だった。だからなかなか薬が効かず、結核が少しも治らない状態が半年以上続き、血痰も出るしで大変辛かった。最終的に京都大学で手術してもらうことを決断し、右肺の下半分ぐらいを取ってなんとか復学できました。

ただ、体はずいぶん衰弱して、体力にあまり自信がなかったですね。それで、もともと研究好きでしたから、学生時代から生化学教室などに顔を出し、いろいろな研究室に携わるようになって、在学中にすでに学会発表もしていました。大学院もやはり研究をしていましたので、だんだん生化学や病理学といった基礎研究を目指すようになりました。とはいえ父が病院を開設していましたので、兄と一緒に臨床もやりながらではありましたけど。

スタンフォード大学での日々

名古屋大学大学院時代に、1972年から74年まで、アメリカのスタンフォード大学で研究をしました。病理学教室でしたが、手法は生化学というハイブリッドな教室で、胃酸分泌の研究をしていました。感心したのは、みんな一生懸命に研究していましたし、盛んに研究発表をするのですが、夕方5時になるとぱっと帰るんですね。研究者といえども、オンとオフがすごくはっきりしていていました。ですから私も夕方5時には研究室を出て、住居近くにある高校で設けられていた社会人向けのいろんなクラスに参加しました。ろくろを回して陶器を焼くとか。墨絵の本を買って描いたり。海外にいるのに、逆に日本の文化を結構楽しみました(笑)。休日も、土日のほかに年に1か月休みが取れるので、あちこち車で出かけました。もちろん論文も書きました。アメリカでは5時に帰宅してもきちんと研究やその他のこともいろいろできたのに、日本に帰るとなぜか余裕がなく、日本型に戻ってしまうんですよね。不思議なことに(笑)。

研究室の設備に関しては米国のほうが整っていました。研究では人肌の37度ぐらいでインキュベートする操作が多いのですが、当時、日本の研究室では水しか出ませんでした。しかし米国では、熱いお湯と水が出るのはもちろんのこと、37度のお湯が常に出る専用の蛇口もあり、すぐにインキュベートできる。他にもいろいろと環境が整っていましたが、研究の中身そのものは基本的に一緒だったと思います。

帰国して大学院に戻ってからも、最終的には生化学の教室で助手という職を得て、どんどん基礎研究にのめり込んでいきました。もともと好奇心が旺盛で、研究テーマにぐっと入りこんでしまう性格で。当時は生体膜という細胞の膜の働きがすごく気になり、夢中で分析しては論文を書いていました。ただ、一緒に研究する相手が工学系の先生だったりと、医学や医療から離れてしまい、もう少し医療に直接結び付く仕事をしたいと感じ始めていた頃、法医学をしている先輩や同僚から「好きなことができるし面白いから来ないか」と誘われ、法医学に移りました。基礎研究から法医学ですから、まさに、ぽんと飛んだ感じです。

スタンフォード大学の研究室で(1973年)

スタンフォード大学の研究室で(1973年)

法医学からDNA分野へ

法医学というのは、医学の中でかなり特殊な分野です。医学は病気になった人を治す色合いが濃いのに対して、法医学の対象は主に亡くなった人で、法律上の問題を医学の立場から解き明かしていくというものです。地味な学問ではありますが、すごく大事なことですし、さまざまな解決に貢献できるので、やりがいや充実感があります。また、法医学では、わからない部分を医学的に解明する方法を徹底的に調べていくので、あらゆる手段を使います。そういう意味では、病理学も含めて過去にいろいろな分野に首をつっこんできたことが非常に役立ちました。

例えば、一酸化炭素中毒では、血液中の一酸化炭素ヘモグロビン値を測りますが、当時は法医学的に重要な低濃度領域については簡単に測れる方法がありませんでした。面倒な機械を使わないと正確に測れず、かなり手間が掛かりました。そこで私は、以前に赤血球を使った研究で行っていたスペクトルの測り方や、吸光度計の原理を利用して、3分ほどで簡単に測れる方法を確立しました。一酸化炭素中毒の基本的なメカニズムは、血液の中でヘモグロビンと一酸化炭素がくっつき、酸素結合の250倍の強さで結合します。いったん結合すると取れないので、酸素を運べなくなってしまい酸素欠乏に陥ってしまいます。そして、一酸化炭素が結合すると赤色が微妙に変化するのです。それをうまく2カ所で測ることで、直線上に0から100%まで正確に数値化できる。これは今も広く使われていて「勝又法」と言う人もいます。他にもいくつかの方法を作って成果も出しましたが、やがてDNAにだんだん集中していくようになりました。

DNA鑑定と歯ブラシ

かつて法医学における個人識別は、ABO式血液型によるものがメインでした。亡くなってしまうと判定できない血液型が多い中で、ABO式血液型だけは判別できるのが理由です。とはいえ一つの血液型ですから、識別能力は低かったのです。そして1985年頃から突然始まったのがDNA研究です。イギリスのジェフリーズという人が、DNA指紋の手法によって詳細なことまで分かると発表し、それが法医学にも入ってきました。ちょうど私が教授になった頃のことでした。すごいとは思いましたが、難しくて実用的ではなかったので、誰もなかなか手を出しませんでした。その後、PCRというすばらしい手法が見つかりました。DNAのある部分、数百塩基の配列を100万倍ぐらいに増幅する技術で、開発した人はノーベル賞をもらっています。このPCRが応用され、唾液や皮膚など微量な組織であっても、増幅することで簡単にDNA分析ができるようになりました。90年代後半に入ると、かなりしっかりとした手法が確立されていきました。

私の場合、90年代前半からPCRを用いたDNA分析に関わるようになりました。当時、いろんな材料を使った研究が進められる中で、私が論文にした1つが歯ブラシでした。歯ブラシには口腔内の細胞がついているだろうと、試しに歯ブラシからDNAを抽出してみたら、きちんとした結果が出ました。もちろん洗った後の歯ブラシで。そもそも歯ブラシというのは、家族の間でも同じものは使いません。だから都合がいい。私の弟子が学位論文にして、米国の雑誌に発表しました。その翌年、ワールド・トレード・センター(WTC)で2,700人の方が亡くなった9.11事件では、やはり身元確認にかなり苦労したようです。亡くなる前のDNAをわざわざ採っている人はほとんどいませんから。そこで、近親者の方を呼んでそのDNAから推測する鑑定をしたのですが、亡くなった方の使っていた歯ブラシが残っていれば持ってくるようにとネットで呼びかけていましたので、かなり利用されたようです。

DNA研究発表

DNA研究における討論会

DNA研究における討論会

DNA研究発表

伊達政宗公の毛髪で3代の親子鑑定

髪の毛によるDNA鑑定は、毛根部にはしっかり細胞がついていますが、毛幹部(毛先)はあまりついていないので難しい。そこで私は、非常に微量であっても、高感度のDNA分析法を工夫することで可能にする手法を工夫し、論文をまとめました。

ちょうどその頃、名古屋大学理学部の先生から、伊達政宗公の家系をDNA鑑定してほしいと依頼を受けました。お墓の再建時に見つかった毛髪や肺組織などを使って3代にわたる親子鑑定ができないかと。その先生はミトコンドリアDNAの分析をしている方でした。ミトコンドリアは化石などのDNA分析では重要な要素です。少し専門的な話になりますが、細胞の中には核があり、そこにDNAがあります。それ以外にミトコンドリアという小器官があって、1つの細胞に数百個入っています。その中にそれぞれ数個のミトコンドリアDNAが入っています。つまり同じDNAが1,000個以上あって、核DNAが1個なのに対してすでに1,000倍以上増幅されていることになるので、微量でも結果が出やすい。そういうわけで、ミトコンドリアは化石のようにすごく細胞が微量になってしまったものに役立ちます。ところが人間の場合、ミトコンドリアは母親の型が子供にそのまま遺伝する「母系遺伝」なので、父親のミトコンドリアは入りません。伊達家は初代の政宗公、次代の忠宗公、綱宗公と3代とも男性ですから、ミトコンドリアDNAは使えないため、私に依頼がきたというわけです。

当時の私は、微量なものだと10人中、1人〜2人ぐらいしか結果が出せないところを、大半が結果が出るまで確率を高めていました。なお、300年ほど前のDNA鑑定と言っても、やはりプライバシーに関わることですから、伊達家のご子孫の方には承諾をいただくべきだと思い、まずは連絡を取りました。実際にお会いすると、ご子孫の方は、当時伊達家関係の博物館の館長を務めており、いろんな遺物をどのように保管するかといった研究をされている方でした。ですから「学問的にきっちりDNA鑑定をやりたい」という私の意図をよくご理解してくださり、私は安心してDNA鑑定に取り組むことができました。

運良くすべての資料でDNAの型が決定でき、結果として親子鑑定がぴたりと合い、親子3代の遺伝子が伝わっていることが明らかとなりました。その後、博物館では、私が鑑定した内容がパネルで展示され、参観できるようになっているとのことです。

伊達家3代のDNA系譜図

DNA鑑定における可能性と限界

DNA鑑定におけるバイブルともいえる著書

DNA鑑定におけるバイブル
ともいえる著書

法医学におけるDNA鑑定には大きく2つあり、一つは犯罪捜査などで「ここにあるものが誰のものか」を分析する個人識別で、もう一つは民事的な問題解決を目的とする血縁関係の確認で親子鑑定が代表です。

個人識別では、血痕や唾液痕などからの型判定を行います。DNAの量でいうと、0.5ナノグラム(注)程度あれば型判定ができます。無理しても0.2ナノグラム(細胞約30個分)ぐらいで、それがPCRの限界と言われています。しかし、高感度のDNA分析法では、PCRをもう1回行います。つまり2段階のPCRを行います。それほどの超高感度の領域となると、コンタミネーションと言って、周囲に浮遊しているDNAがたまたま、ぽんと入ってしまうことも起こりやすくなります。したがって、事件などで個人識別するときは冤罪を生む心配があります。そのため、超高感度PCR法は、事件などでの個人識別には使わないことになっています。でも、研究などには注意して使えば大変有用です。いずれにしても、感度を上げれば上げるほど、他のDNAが入り込むリスクも上がります。ですから1例1例、丁寧に見ていかないといけませんし、DNA鑑定の限界をきちんと理解して対応することが重要です。

親子鑑定については、今のところ、まだ近親であっても、叔父、姪、従兄弟と血縁が離れていくと、なかなか鑑定が難しく、まだまだ、いろんな研究の余地があると思います。私の弟子で、京都大学教授の玉木先生が、良い状態のDNAがあれば相当のことがわかる方法を開発しましたので、今後が楽しみです。

(注)10のマイナス9乗分の1

これまでに取り組んだこと

  • 司法解剖を4大学の分担制に
    〜名古屋大学法医学教授時代(1986年〜2006年)〜

    当時、東海地区には4つの大学に医学部がありました。名古屋大学、名市大、愛知医大、保健衛生大学。ところが司法解剖は名古屋大学でほとんど行われていて依頼数が多く大変でした。加えて、他の大学の学生さんたちは法医解剖を見学する機会がないのも残念に思っていました。解剖の事例から研究が進むこともありますし、身近で見学することで法医学に関心を持つこともあるので、「分担制にしませんか」と3大学に足を運んでお願いしました。しかし、司法解剖は大変な作業です。2年近くかけて説得し、4大学による協力体制を確立しました。曜日を決めて輪番制にしたことで、私自身も研究に没頭できるようになりました。この体制は今も続いています。

  • 「倫理委員会」を開かれた場に
    〜「倫理委員会」委員長〜

    倫理委員会の記者会見(1990年)

    倫理委員会の記者会見(1990年)

    法律と倫理は近い部分があります。法律は犯すと処罰されたりと強制力が強いですが、倫理もあるべきものというのがはっきりとありますよね。遵守しなければ、処罰まではいかないにしても非難されます。

    名古屋大学には倫理のことを検討する「倫理委員会」があり、私が法医学教授になってすぐ、そこに引っ張られました。当時、倫理委員会では脳死問題を扱っており、「脳死で臓器を取っていいか」という議論をしており、非常にピリピリとして、議論の内容をオープンにしない方向でした。これに対して私は文句を言いました。「臓器移植の問題は、こっそりと勝手に進めるべきではない。一般の方にもオープンにしながら、どうあるべきか議論していくのが本来ではないか」と。すると「それなら君が委員長をやれ」と言われ(笑)、1年後には委員長となりました。どうせ委員長を務めるのなら、納得するまでやろうと決め、それまでの規約を改正して議論はすべてオープンにしました。脳死が問題になっていた時期なので、ずらりと報道陣が後ろに並び「こんな中での議論では、思ったことも言えない」と抵抗する声もありましたが、思ったことを言い合い、その中で決まったことでなければ社会は受け入れないという信念がありましたので、反対する人を説得しながらどんどんオープンにしていきました。

    例えば、「エホバの証人」の輸血拒否の問題が委員会で提起されたときは、「エホバの証人」の方たちが入ってきました。当時、輸血に関して、しっかりしたガイドラインがなかったので作らざるを得なかった。本人がどうしても嫌と言ったときは、ある程度、尊重せざるを得ない部分がありますが、一番問題だったのは子供です。子供の命を親が左右していいのかという問題です。現実にアメリカでは、妊婦の方がいくら輸血は嫌だと言っても、赤ちゃんの命を守るため、妊婦の命を救うための輸血をすべきとの裁判所の判断はよくあります。倫理委員会では、小さな子供というのは何歳までかが議論の中心になり、先例がないのでいろんな意見が出て、本当に困りました。それが1年ほどかけてだんだん絞られていき、法律関係の委員の先生方のアドバイスもあって、法律的に意思判断が認められる部分のある15歳を基準としました。その数年後には、臓器移植法ができましたが、そのときも同じような議論が出て、15歳以上はドナーカードを書けるという基準になりました。

  • 学科のカリキュラムを7割に削減し、半年間は研究者の仲間入り
    〜「教育委員会」委員長〜

    教育委員会の委員長を務めたときは、学生さんに研究心を持っていただくため、思い切って、学科のカリキュラムを7割ぐらいに削減しました。残りの3割を集めて生まれた半年分の時間帯で、学生さんは好きな研究室に張り付けるようにしました。この半年間は研究者の仲間入りをして、論文を書いたり発表したりといった体験をできるようにしました。研究心を身につければ、それが日常の医療の中でも生きてくると考えました。

    最初の頃は多少ぎこちなかったのですが、やがて学生さんたちは海外の有名雑誌に報告できるまでになりました。この仕組みは今も名古屋大学で続いています。

  • 大学法人化の体制づくり
    〜名古屋大学医学部部長 1999年〜2003年〜

    私は医学部長を2期務めましたが、1期目の2年間は、大学院大学としての体制づくりがメインでした。ちょうど当時は大学院の重点化が図られた時期でした。通常は、大学の医学部で学生さんを教え、大学院で研究者も育てるという二重のつくりで、基本的には大学の医学部が中心でした。しかし文部科学省は、研究をしっかりやっている大学は大学院中心にしようと、いくつかの大学を選び、名古屋大学もその1つに入ったため、教授の数をかなり増やすなど、いろいろな体制づくりに取り組みました。

    2期目では大学の法人化が課題になりました。それまでは、国立大学という国の附属機関の位置付けで、運営費交付金という予算が降り、1年たったらゼロにするという、お小遣い帳みたいな運営でした。それが、独立して自分たちでやりくりする「独立法人」になることになったので、その準備に忙殺されました。独立採算的な仕組みに切り替えるのは大きな変革ですし、過去に経験もありませんから、いろんなコンサルタントを呼んで相談し、医学部長の補佐もつけてもらいました。私が任期を終えた年に法人化になりましたが、とにかく2期目も大変な2年間でした。

  • 司法解剖の改革
    〜日本法医学会の理事長 2003年から2006年〜

    医学部長の任期が終わったところで日本法医学会理事長になりました。ここでは司法解剖の改革をやりました。司法解剖は、警察に頼まれて解剖をして、その結果を鑑定書として報告します。その際、鑑定謝金が教授に支払われます。この金額には、必要な検査費とか組織標本の費用とか、法廷で争われたときは全部責任を持つとか、いろいろなものが含まれているにも関わらず、一律数万円と安かった。症例によっては、いろんな検査が必要になりますし、その頃はDNAの検査もやるようになっていましたから、とても足りません。さらに途中からは国税局が入ってきて、「謝金は個人の収入だから税金も払いなさい」と。こうなると、かかった経費も申告しなければいけませんので、とにかく面倒です。まして戦後から金額はあまり上がらず、これはちょっとおかしいと思い、「必要な検査もできないのは、大変問題です。謝金は減らしても構わないので、検査料は対価としてきちんと出してほしい」と、警察庁に対して交渉を始めました。交渉のために、全国80大学の教授とのメーリングリストを作って広く意見を募り、最終的に警察庁に納得してもらいました。それで解剖費用は確か約3倍になったはずです。これによって警察庁も必要な予算は要求できるようになりました。

    なお、司法解剖は大学の社会貢献の一環ですから検査などの経費の支払先は教授個人ではなく大学とすることも明確にしました。大学は、管理費などを差し引いて教室に戻すという仕組みにしたことで、大学の社会貢献が明確になったのも良かったと思います。

    ところで、こうした司法解剖の費用改定が固まった段階で、思いがけず私自身が警察庁の科学警察研究所長に任命され、定年の1年前に大学を辞職し就任しました。警察庁長官にあいさつに伺ったときに長官が「あなたの言ったようにやりましたから」と言われまして(笑)。私が異動した後に新しい制度がスタートしたので、じつは私自身はこの制度による経費は一銭もいただいていません。

科学警察研究所長 2006年から2008年

2006年には科学警察研究所長に就任し、ここで中央官庁の一員となるという貴重な経験をしました。ちょうど終末期の問題が出てきた頃でした。北海道のあるケースで、人工呼吸器を付けた患者さんが食物を詰まらせ、医師は家族と相談して人工呼吸器を外し、その後、患者さんは亡くなりました。通常は、餅などを詰まらせたことによる事故となりますが、警察は人工呼吸器を外したために死んだのであれば殺人の疑いがあると言い出し、医療の現場は大混乱に陥りました。人工呼吸器は一度取り付けると、餅が詰まろうが、心臓が止まらない限り絶対に外せないのかと。さらに、私の科学警察研究所長就任の直前には、北陸の病院で、外科部長の医師が5年間に7人の終末期の患者さんの人工呼吸器を外したことがマスコミに大きく取り上げられました。2006年3月末のことで、私が4月1日に就任した早々、富山県の県警の人が処理に困って、警察庁に相談に来ました。警察庁も担当が殺人を扱う捜査一課となるので、そこの課長さんも困って私のところへ相談に来られ、関わらざるを得なくなりました。犯罪なのかどうかなど、じつに難しい問題で、知っている先生をいろいろ紹介したりして見守っていました。結局、私が任期を終えた1年半後の2009年、北陸のケースが不起訴となりました。不起訴の理由として「人工呼吸器を取り付けないことも、取り付けたものを外すことも、医療行為である」とされ、人工呼吸器を外すことが医療の判断として初めて認められたのです。これは非常に望ましい話で、世界的なグローバルスタンダードに近づいた気がしました。

2013年瑞宝中綬章

警察庁と文部科学省の両方の推薦で瑞宝中綬章をいただきました。法医学は、亡くなってから適正な対処をすることがメインで、命を救うといった医学に比べると地味な分野です。その地味な仕事に目を留めていただいたことが大変ありがたかったですね。


これからの人財育成について

今の医療は、患者さんの生活習慣もけっこう影響しますから、病気を悪化させないとか病気にならない予防がすごく大事になってきています。それによって、医療の主役も、医療従事者から患者さんに移っているように感じています。

一方、医療の進歩に伴って、治療や診断もすごく忙しくなっていて、医師も看護師も多く必要になっており、さらに2000年ごろからリハビリ関係など新しい医療職のニーズが高まっています。医療というとまず医師をイメージする人は多いと思いますが、私は、看護師さんを含めた医療職の皆さんが医療の最前線に立っていると思っています。ですから医療者の教育が今の時代はとても大事で、その教育こそ大切な仕事と思って現在頑張っています。

これからの人財育成について

医専で私が学生さんたちによく言っていることは、次の4つです。

  1. 医療の知識をしっかり持つ
  2. 医療の技術をしっかり持つ
  3. 医療者としての価値観を持つ
  4. 医療者としての態度

これは米国の医学教育協会が、21世紀の医師教育について挙げた項目で、4つは平等に重要だと言っています。つい、知識と技術を得ることに一生懸命になりがちですが、患者さんのために一生懸命やろう、何とか力になろうという気持ち(価値観)を持つことは同じくらい大切なのだと。そして、常に患者さんなどに寄り沿い、上から目線の態度で医療を提供してはならないことも同じくらい大切と。この4つを平等にしっかりと植え付ける教育をしていきたいというのが私の今の信念です。

インタビューを終えてインタビューを終えて

倫理委員会委員長、教育委員会委員長、日本法医学理事長、科学警察研究所長と、この国の指針を示す極めて重要な役職につかれ、さまざまな改革をされてきました。今では常識となった「エホバの証人」における輸血のガイドライン、司法解剖にかかる費用の見直しなど、「他利の精神」で社会に尽くされる姿はだれもが認めるところです。現在は教育者として、若い世代に「医の心」を伝えていらっしゃいます。「常に患者さんに寄り添い、上から目線の態度で医療を提供してはならない」という学生への教えは、勝又先生だからこそ重みある言葉であり、そしてまた今の医療業界に向けた警鐘でもあるように思います。


著書

最新DNA鑑定

ーその能力と限界ー

最新DNA鑑定ーその能力と限界ー

「DNA鑑定」から9年後に出版。前回はDNAの「能力」を中心に解説したのに対し、最新版ではDNAの「限界」について、より深く掘り下げている。2冊を読み比べるのもお勧め。名古屋大学出版、2014年8月初版

DNA鑑定

ーその能力と限界ー

DNA鑑定ーその能力と限界ー

個人識別と親子鑑定について、基礎から分かりやすく解説。鑑定技法だけでなく、結果解釈や倫理的問題など、鑑定をめぐるさまざまな面を浮き彫りにした。名古屋大学出版、2005年10月初版