医療人を志して
祖母との経験で診断と治療技術の重要性を痛感
直接的には、私の祖母とのできごとが影響しています。祖母はいわゆる「心臓ぜんそく」にかかっており、京都府立医科大学にお勤めだった主治医の先生に治療していただいていました。しかし、学会などで不在のときに急に具合が悪くなると他の先生に往診で来ていただくときが何度かあったのですが、内科医をしていた祖父の友人の先生に来ていただいたときは少しも良くなりませんでした。それなのに、ある先生が来られたときには1本注射を打つだけで治ってしまった光景を見て、きちんとした診断と治療技術の必要性を痛感しました。
ダイナミックな「外科」を選択
医者になると決めたとき、祖母との経験から循環器科に行くことも選択肢にありました。しかし、私は最初から最後まで診ることができるのは外科だと思ったこと。そして、性格的にも合っていると考えて、「外科」を選びました。外科は一人ではできません。手術などは仲間と一緒に行いますし、やはり「自分で考えて、自分で手を下し、自分で結末のところまでやる、そして自分のやったことの結果がはっきり出る」そんなダイナミックな点に、魅力を感じました。
勤務医の時代
名古屋掖済会病院で外科以外の経験も積む
昭和46年に名古屋大学医学部を卒業し、最初に勤務したのが名古屋掖済会病院です。診察だけでなく、自分も医療の最前線で積極的に行動できる実践的な、言葉を換えれば野戦的な病院がいいと思ったことから、救急の患者が多くて最も忙しそうな病院を選びました。
名古屋掖済会病院は、東海地区で最初に本格的な救命救急センターを立ち上げた病院です。ここでは、「外科は外科」「内科は内科」の壁はなく、救急が中心のため若い研修医の頃は何でもやらせていただき、とても勉強になりました。何でもやってみたかった僕には良い環境で、若い頃に大腿骨や大腿骨頸部骨折も含め、整形外科領域のほとんどの骨折の手術を経験しています。産婦人科では、お産で100人くらい取り上げています。今と違い、診療科を超えていろいろなところに顔を出して、やらせてもらえた時代でした。
名古屋大学附属病院へ
名古屋掖済会病院は名古屋大学第1外科の関連病院でしたから、その次の勤務先は自然に名古屋大学附属病院の第1外科になりました。自分としても、腫瘍外科を一番やりたかったので、腫瘍外科をよくやっている名古屋大学附属病院がヒットしたということですね。結局、名古屋掖済会病院に足かけ6年いて、東海市民病院に半年間だけ出ましたが、その期間も含めると名古屋大学附属病院には11年間いたことになります。長かったですね。名古屋大学附属病院では腫瘍外科を担当し、膵臓を中心に、肝臓や胆のうも診ていました。また、研究では腫瘍マーカーや臓器障害をテーマにしていました。
半年間、東海市民病院に勤務
そんなとき、当時の教授から「病院によっては人材不足でお困りのところもあるのだから、大学ばかりにいてはいかん」と言われ、東海市民病院に半年間行かせていただきました。ちょうど建て替えの時期に入っていましたから、もうほとんど図面はできていましたが、設計に関わらせていただいたことは非常に勉強になりました。基本的なことは何も変えられませんでしたが、どういう風に使っていくかという機能を考えた設計を勉強させていただきました。僕は名古屋第二赤十字病院も含めて、ちょうど建て替えの時期によくあたるようで(笑)。現在理事長をしている八千代病院は、私にとって5つ目の病院ですが、ここでも建て替えの委員会に入るなど、建築に関わっています。そのときに、設計者任せではなく、お金や時間的な制約はいろいろありますが、主体性を持って建設に関わらせていただけたことは幸せでした。
地域に根ざした医療と幅の広がり
私たち医者、特に臨床医は付き合う範囲が非常に狭い。外科では、手術をする対象の方だけに限られるわけです。しかし、診察を受ける側で見れば、いろいろな病気になることがあります。そうやって広げていくと、コミュニティというか、その地域の問題に広がっていきます。地域で必要な医療がないと、いくら優秀な外科医が1人いても何の役にも立ちません。女性の患者さんがいれば、お産もありますし。だから若いときに名古屋掖済会病院のときにいろいろな診療科に出入りさせていただいて、さまざまな経験をしたことが、健診や予防医学などでも役立っています。
名古屋第二赤十字病院のときは、防災委員会の幹事長をやりました。そのときは、地域の町内の方に来ていただいて会合を行いました。もちろん、住民の方が災害などで病気や怪我をしたときに病院に来ていただくわけですが、病院に何かあったときは周りの方にお手伝いしていただく必要があります。また、東海市民病院は地域に根ざしているので、お年寄りも若い人も来られますし、救急もあれば、長期療養の方もいらっしゃいます。病気もまた1つの診療科だけで完結せず、複数の診療科にまたがるケースが少なくありません。このように、地域の医療は非常に奥が深いし、幅も広いと思います。
八千代病院の院長・理事長として
「10年、この病院は持つだろうか」が第一印象
八千代病院は田中純平氏が「地域に病院がないため、住民が医療を受けたくても受けられない。なんとかしたい」と考えて、私財を投じて開業した病院が前身です。私は平成9年に副院長として赴任し、すぐに病院長に就任しました。ちょうど50歳のときです。普通、「自分がここに勤める」となったら、「この先どうなるだろう?」「自分の役割は何だろう?」と、みんな考えるじゃないですか。お金を稼ぐためなら、行くところはいくらでもあるわけですが、「この先、50歳から70歳まで働くとしたら、自分は何をやりたいのか」「自分に何を望まれているか」ということも、私にとっては新しい勤務先を決める重要なポイントでした。
自分の「出番」が来た!
当時はちょうど高齢化が言われるようになった頃ですから、地域もだんだん変わっていくと考えました。そして、バブルが崩壊して落ち込んだ時期のため、いろいろ考えさせられることが多い時期でした。同時に、医療もだんだん変わってきていて、療養環境も昔からの古いものでは具合が悪くなってきていました。そうした時代背景の中で八千代病院に来てみると、病院はもうかなり老朽化が進んでいて、廊下の幅も狭ければ、当時は一部屋12床という病室もありました。入浴施設も非常にお粗末で、治療する側から見ても手術室が老朽化しているし、検査室も狭く、あらゆる意味で老朽化した状態です。それまで勤務していた名古屋第二赤十字病院は施設も全部そろっているし、人もいる。お願いしたいことがあったら、ほとんどのことはやっていただけるので、非常に楽でした。こうした最前線の大きな病院で働いていた経験から、八千代病院に対して「はたしてこの病院がこの先10年持つだろうか、10年は厳しいのでは」というのが第一印象でした。しかも当時はまだ200床規模(現在は全病床数420床)で、よく頑張っていたものの、先行きを考えたら不安を感じたことは事実です。
ただ、不安以上に「今こそ自分の出番!」と強い力が私を突き動かしました。もう出来上がった場所で、何もかもきちんとそろっていて、自分のやりたいことをやれるのもいい。だけど、自分のやりたいことではないかもしれないけど、自分の出番の場所でやることもまた、人生かなと思いました。「出番」というのは、自分が作る場合もあるし、与えられる場合もあります。でも、そういう場が与えられたというのは、非常に幸せなことです。本当のいいタイミングで巡り合ったと思います。
この地域はありがたいことに、農業もありますが、トヨタ自動車の城下町ですから、人口が増えています。要するに、これから発展していく都市なので、まだまだ病院や医療の需要は伸びていく地域です。でも、病院は老朽化していて、放っておけば朽ち果てていく。そうなると、答えはもう出ています。自分の出番というのは、病院を建て替えて、次の時代に合わせた医療を作るということだと。八千代病院へ来た日に、病院の見学を一通り終えた後、屋上に行きました。屋上から周りの景色を見たときに、「やっぱり地域の医療をきちんと支えていく病院は必要だ」と思いました。最先端がすべてそろっていなくてもいいから、部分的に他より優れている点があればいいのではないか」と思ったことを覚えています。
自分たちでできることはすべて自前で
僕の共通項というのは、名古屋大学附属病院は違いますが、名古屋掖済会病院、名古屋第二赤十字病院、そして現在の八千代病院と、ずっと「救急」に関わってきたことです。それから、先ほどもお話したように、建築に関わる機会が多かったことも共通していますね。この経験を通して感じたことは、自分たちでできることは自前でやった方がいいということです。車とか給食とか清掃といったことは我々の専門ではないし、得意ではないので委託していますが、ほとんどを自前でやっています。うちで作ったパンフレット類は全部自作です。印刷機は持つ意味がないので印刷は外注しますが、印刷直前の段階まで自前で作って渡しています。出版物もみんなそうですね。うちで編集し、全部終了したら電子媒体で渡し、全部自前というスタイルを徹底しています。
病院内に一級建築士が常駐
建築関係もそうです。老朽化を解決するために八千代病院を新しく作るときには、医療者から見て使い勝手の良い病院を、経済的な側面も含めて検討しました。そのために、ここには一級建築士の設計者がいます。日本では、たぶんここだけじゃないでしょうか。大学なら工学部があるから一級建築士がいますが、病院に所属して一級建築士が常勤でいるケースは他ではないでしょうね。建物は建ててしまったら、もう終わりだと思うかもしれません。でも、そうではありません。完成後も建築士がずっと関わっていく必要があります。八千代病院では建物のメンテナンスも含め、改築・改装の部分にも関わっていただいています。
八千代病院が新しい場所に移るときには、基本設計をその建築士と一緒に造りました。この病院の根幹を造り、そして看護師さんの寮を造り、そして新館を造り、あるいは外来の増築をしました。今度、放射線の治療センターを造りますので、そこについても建築士と一緒に考えています。八千代病院は増築や新築移転などさまざまなことがありましたが、この病院の建設については設備も含めて、すべて建築士の彼が関与しているわけです。
設備に関しても、排水・下水の問題。地震対策の問題。発電などのエネルギーの供給についてもコスト計算をして、どこが一番いいか、あるいは安全上どこが一番いいかの検討をする中で、彼は中心的な役割を果たしてきました。
医療者が使い勝手の良い建物は、自分たちで考える
医療者から見て使い勝手の良い建物にするには、やっぱり院内に専門の建築士を置いた方が良いと思いますが、そういう病院はほぼありません。医療者は自分で「こういうものが欲しい」という希望を考えるまでは良いですが、いざ建物を建てる段階になれば、部署によって違う主張が出てきます。病院全体はさまざまな部署の要望がインテグレートされたものなので、それを「どうまとめてカタチにしていくのか」を考える専門家が、医者や看護師さんの中にいるわけがないですね。大学でもそういうことは学びませんし、経済的な問題もまったくわからないです。
例えば手術室を考えるとき、僕は図面を自分で描きますが、建築会社には手術に関する専門家がいないのです。たとえ大手建築会社であっても。手術室は非常に複雑で、温度・湿度などをコントロールすることもやっていますから、配管は非常に複雑です。麻酔ガスなどの配管もありますし。電気的にはアースをきちんと取るといった注意も必要です。しかし、建築会社の設計は、ほとんど意匠設計といって、レイアウトだけ。もちろん、建物の構造設計とか設備設計をされますが、手術室はやっぱり特殊ですね。ですから、収納や配管、コストなども理解した上で、きれいなエレガントな構造にするには、全体をわかっている人が設計に入らない限りは無理です。そして、建築会社さんは、ユーザーである顧客がいろいろと無理難題を言っても、やれるのであれば無理して聞いてしまいがちです。その結果、大勢の意見が入ったがために、使いにくいものになってしまいます。だから、全体を考えた上で設計のコンセプトをきちんと考えることは、やっぱり大事ですね。
そんなわけで、私は建築士ではないですが建築学会に入っています。日本建築学会会員です。こうしたことは、全部自分でやらないと気が済まない性格だからでしょう(笑)。
スーパーケアミックスへの取り組み
八千代病院の院長になって考えたことが、他の病院との棲み分けです。他の病院と同じことをやっても、地域の人はいらないと思うし、誰も評価してくれない。その棲み分けが、僕の言う「最適化」です。地域にとって必要な機能の中で、我々がやれることを分担し、最適化が足りないところを補い、多いところはシェアします。ですから、安城市で2次救急的なものは北と南で分けて、八千代病院と安城更生病院で分担しています。そして、リハビリの慢性期やリハビリの回復期は主に八千代病院でやるという風にしていけば、分担できるのではないかと考えました。新生児とか、血液の疾患、最先端医療、3次救急でも高度な専門家がたくさん必要な場合や、設備が要る、部屋が要るという場合は安城更生病院に全部お願いしています。安城更生病院があるから住民が安心でき、私どもも助かっています。
分担を考えたとき、回復期専門の病院、療養の専門の病院というように機能別に分けていくと、「病院をそんなにたくさん造れるでしょうか?」という問題が出てきます。まだ安城市は人口が18万人いるから可能かもしれませんけれど、それでも難しいですよね。患者さんにとっても、はい、高度急性期、次は地域包括、次は療養へと、次から次へと送られていき、介護施設に行って、在宅へ……とぶつ切りになることがいいのかという問題が出てきます。
患者さんの視点と病院側の視点
問題点は2つあって、患者さんから見たら複数の施設を移動するより、1つの施設の中で診てもらったり、療養できたりする方が楽でしょう。ただ病院側から見たら、高度成長期のように同じ規格のものを大量に生産した方が効率がいい。日本が経済発展を遂げたのも、規格を作って大量生産をして、安価に作ったものを輸出した時代ですね。今の病院にあてはめたら、同じ疾患ばかりを朝から晩までやれば効率がいいことは確かです。でも、患者さんとしてはそれでいいのかという問題です。もう1つは、高齢者の病気は「1つだけですか?」ということです。糖尿病もあり、高血圧もあり、がんもあり、認知症もあり、リウマチもある。そういうときどうするのですか?「この病院はこの病気しか診ることができません」と言うことができますか?複数の病気が同時に進行しているということも、80歳の意味だと思うのです。だから、病院の在り方は、今言われている機能分化をどんどん進めていったら、対応できない人がたくさん出てきます。また、今の国は専門医を養成しています。でも、どうするのですか?1人の患者さんを何人もの専門医が診るのですか?効率は逆に悪くなると思いませんか?
高齢者に合わせた仕組みを作る
だから、これからは高齢者に合わせた仕組みを作る必要があるのです。一般のお産や一般の小児は八千代病院が診るけど、新生児とか専門性の高い白血病や血液疾患など、高度な機械を持っていないと診察・治療ができない病気や24時間張り付いて見ていなくてはいけない病気は安城更生病院にお願いする。そういう機能分担を進めていきます。このエリアを現実的に見て、どういう形態がいいかというと、1つの病院でその地域の最適化を図る上では、「これだけの領域は八千代病院でやらないと過不足が出る」と考えて、それに合わせたいろいろな診療科を作り、ピースを埋めていくわけです。全部とは言いませんが、可能な限り埋めていきたいと考えています。専門病院があるものについては、お願いします。例えば精神科は、矢作川病院があります。地理的に言えば南豊田病院もありますので、そうした分野は専門領域を持つ病院にお願いしていきます。
こうした急性期から亜急性期、回復期、療養期、在宅ケアまで、病気や怪我の回復の時間軸に沿って異なる種類の病棟を整備し、切れ目のない医療・介護を提供することが、私の考えた「スーパーケアミックス」です。その結果、八千代病院の診療科は30科目にもわたっています。そして、この理念を実現するために、他の医療機関との連携を取りながら、地域に必要なものを必要なだけ持ち、地域が望むものを必要なだけ提供する「最適化」を追求しています。
国際病院連盟賞優秀賞を受賞
平成27年10月に「スーパーケアミックス—救急・急性期医療から在宅ケアまで切れ目のない医療・介護の提供」に取り組んできたことが評価されて、国際病院連盟賞優秀賞を受賞しました。一番嬉しかったのは、診療科がたくさんあるということで評価されたのではなく、地域に過不足なく最適化してやっていくという概念を評価されたことです。従来のケアミックスではなく、それを超えた「スーパーケアミックス」という意味は、地域と協調して、患者さん側から見て過不足のないようにしていこうということです。自分たちがこれをやりたいとか、これは儲かるとか、儲からないから切り捨てるという話ではなく、自分達がやれる範囲で最適化し、地域の人が困らないように病院間でも協調しながらやっていくという意味です。儲かることだけをやったり、逆に患者さんを全部囲い込んで、自分の所だけ一人勝ちしようと思ったりしたら終わりです。地域の人のためにならないですよ。
大切なのは「機能の分担」と「最適化」
最近は医療の現場で「病院連携」のように、「連携」という言葉がよく使われるようになってきました。そこに、「機能の分担」と「最適化」という概念があってできあがったのが、「スーパーケアミックス」です。大病院はもう、別にいいわけです。急性期は地元の病院と連携してやられる方がいい。どんどんそちらの方方向に、特化して進めばいいと思います。でも、そこで満たされない部分を満たす病院があってもいいのではないかと思うことが一つ。それから、今お話したように機能分担と最適化という概念を持ち込んで、それでできあがったのが「スーパーケアミックス」です。この「スーパーケアミックス」という用語は、私が作った造語です。必要なのは「分担」と「最適化」であって、機能分化と連携だけでは表現できない部分が大事だと強く感じていますので、そこは協調したいと思っています。
未来に向けて
高齢化時代を迎えて
よく「高齢化」と言われますが、現実をよく見ないといけません。皆さんは60代、70代の人が多いと思っていますが、違います。実は、急性期でも75歳以上がもう半分以上になっています。名だたる大学病院でも全部高齢化しているのです。それが現実です。地域包括ケア病床はもう3分の2がそうですね。療養病床にいたっては、8割が75歳以上です。治療の内容を見ても、若い人ほど手術という選択肢があります。でも、90歳、100歳になれば体力的な面もあって、本格的な手術はできない場合が多いと思います。今入院していらっしゃる患者さんは、すべての科で一番ピークになっているのが80代です。日本全国、全部そうです。みんな勘違いしていて、わかっていないのです。医療をやる側は非常に若いけれど、入っていらっしゃる患者さんは、実はもうほとんど80代の治療をやっているわけです。
医療分野でも高齢化が進む
患者がそういう年齢層になっていることに加え、医療従事者の高齢化も進んでいます。病院の勤務医や看護師はサラリーマンと一緒で、定年があります。ところが診療所の先生はどうなのかと言えば、地域によっては若い先生がどんどん開業されていて、増えているところもあっていいのですが、地域によっては高齢化して、後を継ぐ人がいないところもいっぱいあります。これも問題です。さらにもう一つは、もう高齢者が減ってきていて、医療の需要がもうピークを過ぎている地域が、オールジャパンで見ると結構出てきています。愛知県はまだ人口が増えているのですが、愛知県くらいしかありません。増えているところは。あとはみんな減少地域です。
高齢化のもう一つの問題が、介護のピークです。高齢者の問題は医療だけで考えていてはダメで、医療、介護、そして生活支援、この3つの要素が同時に来るということです。比重は違いますが。だから、これからの医療はそういう状況なので、診る側も若い人だけでは無理です。このままで行くと人口の3人に1人は看護師をしないといけなくなる状況です。国家予算の3分の1が社会保障費ですが、人材ももうその領域に入っているということでしょう。しかも、医療はサービス産業ですから、ある意味では多くの人が要るわけです。工場はほとんど人がいないじゃないですか。地下に工場があって、自動生産の工場もあります。でも、病院は自動生産ができません。だから、僕は厚生労働省で海外から研修生をどうやって受け入れるかを考えています。介護保険は海外、特に東南アジアではほとんどないので、海外でもこれから高齢化しますので、皆さん考えていらっしゃるわけです。
セカンドライフへの価値観を変える
高齢者社会にどう対応するかといえば、税金で負担するか、保険で負担するかの二者択一です。では今後どうすればいいかといえば簡単で、給付を減らせば成り立つわけです。保険を受ける側、年金を受ける側から、年金を払う側になって、あと5年先まで払えばいいだけです。厚生労働省が65歳以上の人を支える図を作ると、昔は数人で支えていたのが、そのうちに2人で1人を支えるようになっています。あれ、おかしいと思いませんか?働く人が税金を払っていけば、昔も今も変わっていないじゃないですか。これからも変わらないですよ。働く人を増やせば。固定概念で見たり、もう結論が決まっていて、そちらの方向に結論が誘導されたりすることが多いですが、「もっと自由な発想を、あなたはできないの」と言いたくなります。
医療の分野でも、医療サービスを受ける側より、働く側に回っていただければ良いと思います。だから、「医療関係の人は60歳で定年退職しないで、65歳まで働いてください」。65歳で定年の方は「70歳まで働ける施設で働いてください」という話にすればいいわけです。そうすれば税金も払ってもらえるわけです。全然難しい話ではありません。働ける人が大勢いるわけですから。働きたい人はどんどん働いてください。ただ、定年後の働き方を、社会がちゃんと制度を作って、受け入れる体制にしないといけません。そして、同じところで働くとは限らなくていいわけです。同じ業種であれば働けると思うので、そうした受け皿、あるいはトレーニングセンターをどんどん作ればいいだけの話です。
働くことは生きること
「働く」ことは、西洋的な視点では「苦役」や「レイバー」みたいな感じで受け取りますが、そうではありません。「働くことは生きること」って、日本の美徳ではないでしょうか。神代の時代から日本では働くことって、生きることだったのですよ。天皇陛下もちゃんと稲を植えます。ヨーロッパのキリスト教社会だったら、王侯貴族が畑の作業をするなんてあり得ない話ですが。
僕は、根源的なことが違っていると思います。「働くのは何歳まで」と決める必要性はありません。「働くことは生きること」と定義しなおせば、何の問題もないのですから。自分にできることをすれば良いのです。生き方って、自由じゃないですか。一定の年齢までは、やっぱりちゃんとやってもらわなければいけません。でも、それ以降は自由に、自分のできることで働くという制度を作れば、全然問題ありません。僕は、できれば畑をやりたいと思っています。
活躍の場所を変えればいい
人の能力を活かす場所って、いっぱいあるじゃないですか。そういうその人の能力でできるさまざまなことをこれから作っていく必要があります。同じ仕事をしようとか、同じ職場で働こうと固執するから、いろいろなところがおかしくなるのです。人って、たくさん必要です。病院でも、トータルで見たら人が不足しているわけです。だから、場所を変え、働くところを変えればいいと思います。だって今、介護福祉士とか介護助手さんなどは全然足りていないですから。病院以外でも、コミュニティ誌を作る仕事やホームページ作成でも、仕事がいっぱいありますよ。そのとき、単に作るのではなくて、今までの経験を活かして、プロモーションに自分たちの思いをちゃんと伝えていけばいいわけで。軋轢は一部であるかもしれませんが、かなりうまくいくと思いますね。
将来AIが発達すれば……
将来はAIが発達し、人に代わるものも出てくるでしょう。例えばお年寄りは、寝たきりになってしまったら動きようがありませんから、訪問診療を受ける必要があります。でも、一人では危なくてできないとか、認知症がちょっと始まってきているといった中間の人が結構いるじゃないですか。そういう方が病院に来るときにバスはどうするかといえば、1時間に1本しかなかったり、本数が少なかったりします。そんなとき、電気自動車の小さいやつに乗って、八千代病院と書かれたボタンをポンと押せば病院に行けますよとなったら、自分で来るようになるじゃないですか。そうやって考えたら、未来は夢があると思います。
インタビューを終えて
「医は仁術であって、算術であってはならない」といわれます。しかし、経営が成り立たなければ、患者さんを救うこともできません。仁術と算術、いずれも大切なのは言うまでもありません。松本理事長はすばらしい仁術を持ちながら、八千代病院では算術の手腕も発揮されました。地域の患者さんや地域の未来を思う気持ちが、スーパーケアミックスという新しい医療のあり方を創り出したのです。
「働くことは生きること。元気なうちはいつまでも働く。そういう人が増えれば、この国の未来は明るい。高齢社会の未来は暗いと口を揃えるメディアがいけない」とおっしゃる松本理事長に、ドキリとさせられました。「働き方改革」が叫ばれる昨今、10年後、20年後の働き方について思いを馳せるのも良いかもしれません。