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愛知学院大学歯学部名誉教授

YOICHIRO KAMEYAMA - 亀山 洋一郎

亀山 洋一郎 - 写真

 

PROFILE

1963年東京医科歯科大学歯学部を卒業し、同大学大学院歯学研究科(口腔病理学専攻)に入学、その後、2年間休学し、米国・アラバマ大学歯学部歯周学講座のインターン・レジデントとして歯周病学を専攻。1965年東京医科歯科大学大学院博士課程に復学し、1969年同大学院を修了、歯学博士を取得した。1969年カナダのマニトバ大学医学部解剖学助教授、1974年同大学准教授を経て、1977年愛知学院大学歯学部病理学助教授に就任、1979年より同病理学主任教授に昇任した。2000年より同大学歯学部長並びに大学院歯学研究科長に就任(7年間)、2007年に同大学を退職し同大学名誉教授となる。2015年秋の叙勲で「瑞宝中綬章」を受賞。

「人との出会い」で口腔病理学の道へ アメリカ留学、そしてカナダでの教育・研究「人との出会い」で口腔病理学の道へ アメリカ留学、そしてカナダでの教育・研究

口腔病理学(形態系基礎歯学)を専門に選んだ理由

1957年に東京医科歯科大学歯学部に入学してから後に、口腔病理学(形態系基礎歯医学)を専門に選んだ理由は、「人との出会い」に尽きます。歯学部の4年生の時に、歯学部の秋吉正豊助教授(後に、医学部教授、難聴医学研究所長)が授業中に推奨された英文の口腔病理学の本を夏休み中に読もうと思い、大学の図書館に借りに行った時、図書館にその本はなく、図書館員が「その本は口腔病理学講座にあります」といったので、さっそく口腔病理学講座に行くと、山本肇助教授(後に、東北大学歯学部教授、東京医科歯科大学教授、同大学学長)が「本を貸すけど、本を読むだけではだめだから、研究を手伝ったらどうか」とのことで、山本助教授の研究を手伝うことになりました。その後、山本助教授から「口腔病理学の大学院に入るように」と勧められ大学院に入りました。でも、その時は「口腔病理学を勉強しても生活できないから、ここでは博士号をもらえばいい」という程度の考えでした。実は父親が歯科の開業医でしたから、「大学院で口腔病理学を勉強して学位をもらい、歯周病学講座で数年間勉強した後に、開業医になればよい」と心の中で思っていたからです。

1963年当時の東京医科歯科大学歯学部附属病院

英語部の部長時代、前列中央は顧問の総山教授(保存学)。右隣りが私。

1963年当時のアラバマ大学メディカルセンター。歯学部のこのセンター内にあった。

病理学・口腔病理学の重要性

病気の治療方針を決める上で、病理診断(生検診断)は極めて重要です。例えば、口の中に腫瘤ができた時、それが癌かどうかを顕微鏡で調べるために、採取した検体を病理検査室へ送ります。そして、その結果を病理診断といいます。検体を調べてもし癌であれば、それは癌のどのタイプだとか、その広がりはどうなっているのかなどを調べ、その結果から外科医は治療方法を決めるのです。病理診断がないと外科の先生は治療を始めません。もっとも、現在ではその治療はインフォームド・コンセントにより、患者さん自身が手術、放射線、投薬、およびその他の治療方法を選択するシステムになっています。

歯学部に入った時は、将来、大学院で病理学・口腔病理学(以後、病理学と記載)を専攻するとは思いませんでした。病理学の分野では、通常、「死体解剖資格証明書」を厚生労働省からもらわないと、医学部や歯学部の病理学教授にはなれません。この資格は、すでに資格のある先生の下で病理解剖を勉強した後、その経歴を厚生労働省に申請して取るものです。ただし、医学部や歯学部の病理学の教授でいる間は、「死体解剖資格認定書」がなくても教育上の見地から病理解剖をしてもいいことになっています。しかし、大学を辞めたら病理解剖はできません。普通、教授になるための条件に「死体解剖資格認定書」を保有しているとの条件のある場合が多いので、教授を目指す人は全員すでにその資格を持っています。私もその資格を持っています。

病理解剖をすると、いろいろなことがわかります。当時はCTスキャナーがない時代ですが、今はCTスキャナーを使えば、病理解剖をしなくても人の身体の中までわかります。しかし昔は違います。胃癌などを摘出した後、患者さんが「背中が痛い」といったら、胃癌が背中に転移しているかどうかは、解剖しないとわかりませんでした。今でも、細かいことまではわかりません。例えば、肺癌で亡くなった患者で症状がなくても身体全体の臓器を取って調べます。生前、患者さんは「痛い」といわなかったけれど、調べてみたら、脳に癌細胞が来ていたということもあります。小さな癌細胞などはCTスキャナーにも映りませんし、痛くもありません。

昔は、医学イコール病理学でしたが、時代とともに病理学からいろいろな専門分野が出てきました。しかし昔は、内科や外科を目指す人は、まず、病理学講座に入って研究してから臨床に戻る人が多くいました。病理学の分野の面白さは、病理学というのは病気の本態を追求する学問ですから、病気の本態を追求することによって、病気の原因、病気の経過や結果、病気の予防などがわかります。そうすると、こういう原因で病気が生じ、それで、そうならないように原因を排除すればその病気の予防ができるというわけです。病理診断が出れば治療方針も決まります。病理診断がないと病気の治療方針が決まりません。だから、病理診断は治療上非常に重要な事柄になります。

アメリカのアラバマ大学に2年間留学

大学時代の思い出の一つは部活のESS(英語部)での活動です。東京医科歯科大学では英語が好きだったので、ESSに入って部長をしていました。当時、マッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)のいたアメリカ大使館で秘書をしていたマーガレット・キーン女史と在日アメリカ軍立川基地の歯科軍医(大尉)をしていたメルビン・コールマン氏に、ESSの部員は毎週英会話を教えてもらっていました。大学6年生になった時に「大学卒業後はアメリカで勉強をしたい」と考えて、いくつかのアメリカの大学の歯周病学教室のインターン・レジデントに応募しました。その時に、上記のお2人に推薦状を書いてもらいました。1963年3月末の卒業までにどの大学からも返事が来なかったので、口腔病理学の大学院に入学しました。しかし、5月になると、アラバマ大学の歯周病学教室から「8月1日から2年間、年俸3000ドル(当時は1ドル360円)の給与でインターン・レジデントとして採用する」という通知が来たのです。アラバマ大学歯学部歯周病学講座は毎年2人をインターン・レジデントとして採用していました。2年間のコースで、1人は私で、他の1人はテキサスのベイラー大学歯学部出身の白人のアメリカ人でした。アラバマ大学で歯周病学講座の2人のレジデントを採用するのに、アメリカ国内から約60人くらいの応募があったようです。この狭き門を通過できたのも上記のお2人の推薦状のお陰だと思います。

口腔病理学大学院の担当教授で恩師の石川梧朗先生(後に、東京医科歯科大学歯学部長)にアメリカ行きを相談したところ、2年間大学院を休学してアメリカに留学することを許可してくれました。しかし、今の人には想像もできないでしょうが、当時、自費で海外旅行や海外留学をすることは、日本は外貨の支出を制限しているために大変難しいことでした。問題だったのは自費で準備する渡航費用です。飛行機は料金が高くて全く考えられませんでした。その時、同様にアメリカ留学を考えていた同級生が、自分は受けないといって、アメリカ大使館から支給される旅費の試験の申請書をくれたので、さっそく申請を行いました。その結果、面接試験に合格して旅費の10万円をもらうことになりましたが、その旅費ではアメリカに行く三井船舶の「さくら丸」に乗船することが条件でした。

次は、パスポートの申請です。パスポートも簡単には取れません。外務省で3人の役人の面接試験を受けました。役人が並んで座っている机の前で「貴方は何の目的でアメリカに行くのですか」と聞かれたので、「アメリカの大学からインターン・レジデントとして採用するとの通知が来たので、それで行きたいと思います」と答えたら、「貴方はアメリカの大学から給与をもらうので、渡米には問題がありませんから許可します」といわれ、初めてパスポートがもらえました。当時、どれだけお金があっても、上述したように、毎年、日本から国外に持ち出せる外貨が決まっていました。個人が外国に持っていけるお金は1人150ドルだけでした。次は、パスポートを持って日本銀行本店へ行くと、150ドルだけ日本円から換金してくれました。当時、一般の人にとって円からドルに換金してくれる銀行は日本銀行だけだったような気がします。上記の準備ができたので、横浜港から出る三井船舶の「さくら丸」の船底の三等船舶の客になり、10日後にホノルル、14日後にロサンゼルスに着きました。これは1963年7月のことです。

アラバマ大学歯学部歯周病学講座の教員。前列右から2人目がマン主任教授、後列左から2人目が私。

アラバマ大学歯学部1965年のアルバムにのった私。

マン主任教授よりインターン・レジデントの修了証を授与される。

アラバマ大学時代の思い出

1963年8月から、アメリカのアラバマ大学歯学部(歯学部長は歯科医師と医師の資格を持つマッカラム教授で、歯周病学主任教授はマン教授)に行って、すぐに歯周病の患者さんの治療を始めました。初めてアメリカの歯科の現場に触れて驚くことばかりでした。例えば、今は歯科医院に行けば、エアタービンを使って虫歯を簡単に削ってくれますが、当時の日本ではまだエアタービンが殆どなく、東京医科歯科大学にもありませんでした。日本ではそういう状況なのに、アメリカに行ったら歯学部学生がみんな自分自身のエアタービンを持っているのに驚きました。エアタービンは30万回転ですから、ビューとすぐに虫歯が削れます。東京医科歯科大学では性能の落ちるオイルタービンを使っていて、1台を60人の学生が順番で使っている状態でした。歯を削らないと虫歯の治療はできませんが、昔の電気エンジンは7,000回転ですから、患者さんに何度も来てもらわないと虫歯は削れません。でも、エアタービンなら一度で簡単に虫歯が削れます。それから、歯に被せるのにクラウンやブリッジというのがあります。日本では学生実習でそれらの製作を勉強するのには合金を使います。ところが、アメリカの学生実習では本当の金を使っていました。また、アメリカでは歯の修復に日本では見たことのないメタルボンド(セラミック)を使っているのにびっくりしました。表面が白色のセラミックなので、口腔内では金属が露出せず、全ての歯は自然のような白色の歯列を示します。このようにアメリカでは、学生実習や歯科技術でも日本とは全く違っていました。

アメリカ留学1年目でもっとも強く印象に残っているのは、1963年11月22日にテキサスで起こったケネデイ大統領の暗殺事件です。昼食後、病院に行くとテレビからの暗殺事件の報道で病院内は大騒ぎでした。その日は診療を中止して、1日中続いていたテレビの報道を見ていました。またこの時代、他に強く印象に残っていることは人種差別です。アメリカ南部にあるアラバマ大学メディカルセンターでは、医療関係者は全て白人で、黒人は用務員くらいしかいませんでした。トイレは白人と黒人は別ですし、食堂には黒人は入れませんでした。市内のバスでは、前は白人の席、後ろは黒人の席と決まっていました。また、当時のアラバマ州の法律では、日本人を含めた有色人種の人は白人の人とは結婚できませんでした。もっとも、北部の州に行けば結婚はできました。大阪毎日テレビ局の手助けとして、当時、ジョージア州のアトランタで人種差別に反対して活動し、ノーベル平和賞を受賞した、マーチン・ルーサー・キング牧師との会見に立ち会ったこともありました。この会見は今も強く印象に残っています。法律的に人種差別がなくなったのは、ケネデイ大統領の後のジョンソン大統領が公民権法を議会で通したからです。アラバマ大学では私はもちろん白人として待遇されました。

歯周病学のインターン・レジデントとしてアラバマ大学に行ったので、歯周病患者の治療の勉強が主目的でした。そのため、患者を診療し、決められた講義に出席し、大学からは給与をもらっていました。インターン・レジデントでいるためには、講義の試験成績で平均点Bを取らないと、自分の国に返されてしまいます。そのため、試験勉強は80点を目指してやらないといけないので、勉強は大変でした。いろいろな講義では小児歯科、口腔外科、矯正歯科、口腔内科、予防歯科、など他のインターン・レジデント達と一緒でした。しかし、歯周病学と病理学の講義では歯学部の4年生と一緒に受けるようにといわれました。試験も学部の学生と一緒に受けたので、その試験準備は大変でした。病理学の講義では、すでに歯学部を卒業している、私、スコットランド人、キューバ人の3人が一番後ろに席を取って、学生と一緒に授業を聞いていました。また、インターン・レジデントの2年目には、歯学部学生の歯周病臨床実習のインストラクターもしていました。

驚いたのは、現在、日本では誰もが使っているコピー機が、当時のアメリカではすでに存在していることでした。また、困ったのは、試験のためにアメリカ人の友人から借りた鉛筆書きのノートを、その機械でコピーしても、字がまた独特で読めないことでした。上述したように、当時の日本にはまだアメリカで見られたようなコピー機がなく、日本にあったのは青焼きといわれる湿式の複写機です。それなのに、アメリカではボタンを押せば、普通紙にコピーされたものが次々に出てきました。これは大変なカルチャーショックでした。この時代、日本からアメリカに輸出されていたのは主として衣類で、自動車は全く輸出されていませんでした。

33歳でカナダのマニトバ大学へ

1965年に2年間のアメリカ留学を終えて日本に帰国して、大学院に復学しました。そして、私は大学院3年生の時にカナダ ウィニペグ市のマニトバ大学医学部で解剖学を教えていたフィリックス・バータランフィ教授(父親は元ニューヨーク州立大学教授、一般システム論で有名)が東京で行われる国際癌学会に来るので、東京案内をすることになりました。本来は薬理学の講師が案内する予定でしたが、彼は「ロンドン大学へ留学することになったので、お世話ができないから君が案内してくれ」と頼まれたのです。東京のあちこちを案内した後、バータランフィ教授が羽田から帰国する際「カナダの大学で何か職があったら、紹介して欲しい」と何気なく聞いてみました。すると、帰国したバータランフィ教授からすぐに「医学部解剖学講座の助教授の席が空いているから、すぐに来て欲しい」という返事を受けました。しかしまだ、当時は大学院の3年生でしたから「大学院を修了するまで待って欲しい」とお願いし、大学院修了まで待ってもらいました。

講義に追われた、マニトバでの助教授時代

アラバマ大学歯学部では歯周病学を学び、東京医科歯科大学歯学部大学院では病理学を学びました。一方、マニトバ大学医学部には解剖学を教える助教授として行きました。実は、病理学と解剖学は似ているのです大学病院では亡くなられた患者さんを病理解剖(剖検)することがあります。当時の東京医科歯科大学では、医学部に2講座、歯学部に1講座、研究所に1講座と、全部で4つの病理学に関する講座があり、それらの講座の大学院生助手、講師が一緒になって2人で1チームを組み、順番に病理解剖を担当していました。その頃はご遺体を保存する冷蔵庫がなかったので、患者さんが亡くなったすぐに解剖するということで、解剖当番は夜は大学に泊まりこみました。夕方の6時から翌朝の9時までの間に亡くなられた方がいたら、当番の2人で解剖するということになっていました。その当番は4年間続き、多い日は一晩に4体の病理解剖がありました。また通常、日中は手の空いている4講座の人が解剖当番を助けていました。したがって、上記の経験があったから、マニトバ大学では解剖学の助教授が勤められたと思っています。

カナダのウィニペグ市にあるマニトバ大学医学部解剖学講座(主任はムーアー教授、発生学で有名、後にトロント大学解剖学主任教授)に行ったのは、1969年6月で、33歳の時です。カナダに着いた翌月の7月20日にアメリカは月にロケットを打ち上げました。その映像を解剖学のカナダの大学院生と一緒にテレビで見ていたことも忘れられません。最初の2年間は解剖学の講義と実習の授業ばかりで、研究をする余裕はありませんでした。しかし、今でもそうだと思いますが、日本から北米の大学に行く人の殆どは研究が目的だと思います。というのも、アメリカやカナダでは、大学は研究費を出しません。「研究費は自分で取ってくる」というのが、アメリカやカナダのシステムです。その研究費の中には、採用する研究者や技術員の給与も入っています。医学や歯学の教授はユダヤ系の人が多く、優秀なので大きな研究費を獲得しています。彼らは親日的で、特に日本人を雇用する人が多いようです。それは、日本人は夜12時まで熱心に研究しますし、土曜日も日曜日も大学に来て研究を続けるので、評判が高いからです。私のように2年間教育が主で北米の大学に行った人は珍しいと思います。

最初は、骨組織や軟骨組織、そして骨格を担当するようにといわれました。アメリカでは解剖学講座は医学部と歯学部の両方の学生を教えています。また、アメリカやカナダで解剖学を教える教員の多くは、理科系学部を卒業して医学部の解剖学の大学院でPh.D.(Doctor of Philosophy)の学位を取った人です。医学部や歯学部を卒業して大学で解剖学を教える教員は、臨床と違って給与が低いので、医学部や歯学部の卒業生はあまり来ません。それで、理科系学部の卒業生で医学部の解剖学講座でPh.D.の学位を取った教員が医学部や歯学部で解剖学を教えることになります。最近は日本でもそのようになってきました。大きな大学の医学部の解剖学の教授の経歴を調べると、必ずしも医学部の出身ではなく、理科系学部の出身者のPh.D.の人がいます。

アメリカやカナダでは、医学部や歯学部の教員で、同じ大学の臨床の先生に診察してもらうと、その人はその先生のプライベート患者になって治療費を払うことになります。大学によって違いますが、当時、臨床の先生は給与とは別に大学内でプライベート患者を診て5万ドルまで稼いでよく、もし5万ドル以上だったら5万ドル以上の金額は大学に寄付します。アメリカやカナダの大学の多くはそのようなシステムになっています。ドイツもそうですし、近くでは韓国もそうです。マニトバ大学では「あなたは解剖学以外に大学内では歯周病患者の治療をしてもよいが、カナダの歯科医師免許がないので、治療に対する給料は払いません」といわれました。

マニトバ大学での初めの2年間の講義で特に印象に残っているのは、講義中に学生の質問が多くて辟易したことです。医学部では約100人の学生が講義に出席していて、そのうちの20〜30人の学生が質問で手を挙げます。辟易した理由は、日本とは講義のシステムが違うからです。その日の講義は「軟骨組織」、この日の講義は「皮膚組織」などと決まっていて、その時間を逃すと、もう「軟骨組織」や「皮膚組織」について講義する機会がなくなるからです。日本なら「今日はここまで」で終わり、次の講義では「前の続きから」始めるのが普通です。しかし、アメリカやカナダでは上述したように「この時間は何について話す」と掲示で出してあるので、学生はその時間でしかその課題についての質問をする機会がありません。だから、100人のうち、20〜30人が手を挙げることになります。したがって、その学生の質問を時間内にうまくまとめて対応するのが大変でした。

すべての質問に答えていたら課題の授業は終わりません。アメリカやカナダでは授業でプリントを読むと、学生はそのプリントの配布を要求します。そうすると、学生もプリントを読むのでそれでは講義ではうまくいきません。それで、プリントではなくスライドを使って講義を行いました。今ならパワーポイントです。スライドを見せて授業を行うと、学生はスライドが欲しいとはいいませんから、講義はうまくいきました。スライドを作って、朝9時からの講義なら、朝5時頃に学校に行って講義の内容を暗記して教えることに専念しました。特に「英語が通じない」といわれたら困るので、そのような事がないように注意していました。その結果、スコットランドから来た教員が講義をすると「訛りがひどくて、講義がさっぱりわからない」が、「亀山の英語はわかりやすい」といわれました。

アラバマ大学のフットボール競技場。当時は全米の大学でアラバマ大学は一位であった。

歴代のマニトバ大学医学部解剖学講座の主任教授の先生。下階の一番右側は当時の主任のムーアー教授。

マニトバ大学医学部解剖学講座のメンバー。3列目中央は主任のムーアー教授、最後列の右から5人目は私。左から3人目はバータランフィ教授、5人目は星野教授。

3年目からいよいよ研究を始める

最初は2年間の予定でマニトバ大学医学部解剖学講座に行きましたが、2年間では講義や解剖実習だけで、研究時間や研究費がなくて、研究は何もできませんでした。日本に帰った時に「論文は1つもありません」では情けないと考えて、滞在期間を延ばすことにしました。その結果、合計で7年間もマニトバ大学に滞在し、5年目には助教授から准教授に昇任しました。カナダで研究をする場合は「こういう研究をしたい」と申請して、研究内容が良ければ、Medical Research Council(MRC)や他のいろいろな財団から研究費を出してくれます。この研究費の申請書を書くのは大変で、1つの申請書は電話帳の厚さくらいになります。幸いにも、私はMRCから研究費を支給されたので、それで女性の技術員を1人雇って、帰国するまで研究をし、歯周組織や顎関節に関する研究論文を書きました。

研究費申請システムは定年まで続くので、アメリカやカナダでは研究費を獲得するのは大変です。私が雇った技術員が「電子顕微鏡の講習会へ行きたい」というので、研究費からお金を出して講習会へ行かせました。帰ってきてから何をいうかと思ったら「電子顕微鏡の講習会を受けてきたから、私の給料を上げて欲しい」といわれました。上述した研究費申請は定年まで続けなければなりません。そうでなければ研究は続けられません。こんなことをいつまでも続けてはいられないと考えて、日本に帰ることにしました。もっとも両親は東京にいましたし、また、ちょうど「愛知学院大学では病理学を教える人を探している」という話も来たので帰国することに決めました。

さらに、日本に帰ることに決めたもう一つの理由は、同じ講座で私より2年か3年遅れてきたアメリカ人の助教授と昼食を食べている時に「自分の給与はいくらだ」といったのです。普通、お互いに給与の話はあまりしないのですが、彼は私よりも高い給与をもらっていることがわかったので、不愉快になりました。解剖学講座の教員の給与は講座のヘッドが決めています。私はヘッドを飛び越えて学部長に「こんな安月給では、歯も治せません」といったところ、学部長は「そうか」といってすぐに給与を8000ドル引き上げてくれました。でも「愛知学院大学に行く」といって、荷物を日本に送ってしまいました。そうしたら、学部長が来て「学校の費用で全部荷物を取り戻し、正教授にするから残れ」というのです。でも、私は「もう決めました」といって帰国しました。

マニトバから帰国、口腔病変の実験病理学的研究に取り組む

マニトバ大学に行って5年目に日本に一時帰国しました。それは、父親が病気で入院したためです。2ヵ月間休職にしてもらって、日本に帰り父親の歯科医院で診療をしていました。その時の恩師で当時は東京医科歯科大学の歯学部長をされていた石川教授が「昔は、亀山は親の後を継いで開業すると思っていたが、マニトバ大学に長くいるのをみて、だんだん開業しないのでは」と考えるようになり、愛知学院大学を紹介してくださったようです。日本滞在中に愛知学院大学初代歯学部長の岡本清櫻先生(元東京医科歯科大学歯学部教授)の面接を受け、ぜひ名古屋に来てほしいとのお話をいただきました。そこで、一度カナダに戻り、昭和52年1月にマニトバ大学から愛知学院大学歯学部に赴任しました。愛知学院大学歯学部病理学講座で主に研究したのが、口腔癌、歯周病、顎関節などについての実験病理学的研究です。

歯科の未来について

医療の変化に対応した構造改革

歯学部の構造改革というのは、例を挙げればきりがありません。たとえば、昔は歯が1本もない無歯顎の患者が大勢いましたが、今は少なくなりました。そのため、総義歯の授業を減らすことが必要になります。また、最近は高齢者で慢性疾患を持つ患者が非常に多くなったので、治療内容にもその疾患についての配慮が必要となります。さらに、リハビリテーション歯科といった部門では寝たきりの患者の口腔を診ることで、誤嚥性肺炎を防ぐようになってきています。最近は寝たきりの患者が増えているのに、今までの歯科大学では、そのような患者の口腔疾患をどのように治療するのかについてはあまり教えてきませんでした。そのため、そのような患者にどのように対応するのかも教えることが必要です。また、最近は個人の家庭に行く訪問歯科が認められたので、それに対応できる歯科医師も育てないといけないと思います。

最近は大学でもインプラント治療を盛んに行っていますが、インプラント学は開業医が主に発展させたものです。大学で義歯を作っている先生が「義歯で十分間に合う」といっていたので、大学ではインプラント学の導入が遅れました。そのため歯科大学ではインプラント学の講座は少ないのです。インプラント学に関する講座と講座ではない教室では何が違うのかといえば、講座は教授、助教授、講師が1つのセットになっていて、インプラントについて幅広く深く研究ができますが、講座でない教室では研究は小規模になるのではないかと思います。いずれにしても、大学できちんとした新技術のインプラントの教育を十分にすることが大切です。

矯正や咀嚼・嚥下・発音

それから、最近、日本では歯並びの悪い人が目立ちます。芸能人でも歯並びが悪く、八重歯があっても平気でいる人がいます。欧米人は矯正については関心が高く、そのため歯並びはキレイです。歯列不整は顔貌だけの問題ではなく、咀嚼、嚥下、発音・発語にも影響し、スポーツでは力を出す際にも影響します。これからは歯並びの重要性にもっと目を向ける必要があります。また今は、若い人の歯並びばかりでなく、成人の歯並びの重要性も指摘されています。その他にも、歳を取った人や脳梗塞のような全身性疾患のある人では、咀嚼、嚥下、発音などが困難になるので、それらをうまくできるように教えることが必要です。また、食事のメニューをどのようにするのかも、咀嚼、嚥下、味覚に関係するので気をつける必要があります。また、舌が動かなくなると咀嚼ばかりでなく、発音がうまくできなくなります。そういう場合にはどうしたらよいのか、あるいは、寝たきりの患者さんの虫歯や歯周病はどのように治療をするのかといったことは、いままで大学ではあまり教えてこなかったのが現状です。さらに、口唇口蓋裂を手術した患者さんでは、術後に発声や発音の仕方を教えないと、発声や発語がおかしくなりうまく話すことができません。こうしたことへの対応は、むしろ言語聴覚士の方が得意かもしれませんが、歯科の方でもその対応をよく知っておく必要があると思います。上述したような咀嚼、嚥下、発声、味覚などは口腔に関することですから、歯科大学でよく教える必要があります。

今の開業医、歯科医は、患者さんが食物が喉にひっかからないように食べるためには、どのような食物を、どのような姿勢で食べたらよいのか、また、ゼラチン性の食物ならなら何%のとろみを付けるのがよいのか、などと聞かれてもなかなか答えられません。それは、今までの歯科大学ではそのようなことは教わっていないからです。またさらに、唾液が出ないので食物の嚥下ができない、そのためには唾液腺のマッサージをする必要があることもよく教わっていません。今、訪問治療を手伝っていますが、患者さんの中には認知症の人がいて、病室でうがいするためにコップで水を渡すと飲んでしまう人がいます。ところが、福祉士の人が洗面所にその認知症の人をつれて行って、コップで水を渡すとちゃんとうがいをするのです。こうしたことは、現場で実際に経験しないとわからないことです。ですから、学生さんにこうしたいろいろな現場の事柄を話すようにしています。

歯学部生に伝えたいこと

良い歯科医になる

良い歯科医と悪い歯科医の見分け方は非常に難しいです。歯科医を評価するのには、歯科医の治療を実際に見てみないとわかりません。普通の人はよく「あの歯医者は痛くないから上手だ」といいます。普通、患者さんが虫歯の治療中に「痛い」といったら麻酔薬を追加します。しかし、悪い歯医者は患者さんが「痛い」といったら虫歯の部分を全部取らないで「そうですか」といって治療を中止して、その上に詰め物やかぶせ物を装着します。これは良い治療ではありません。こうしたことは、実際に見てみないとわかりません。義歯でも噛み合わせの調整が上手な歯科医はよい歯科医です。へたくそな歯科医は噛み合わせの技術が未熟で、患者さんから「義歯が痛い、痛い」といわれると、義歯を何回も作り替えることになってしまいます。したがって、残念ながら、へたくそな歯科医は儲かることになってしまいます。今の健康保険制度では歯科医師の技術の上手、下手は評価されません。

人の得意分野は様々です。頭が良くて、研究には向いているけれど、不器用で臨床には向いていないという人もいます。医学や歯学は、「応用の学問」です。純粋な学問とは違います。いくら頭が良くても、患者に対して良い対応ができ「良い先生」と評価してもらえるかどうかは、別の問題です。

左からバータランフィ教授、グラハム教授、私。

解剖学講座の秘書と技術員。後列左端は星野教授(後に京都大学教授、東京医科歯科大学医学部卒で私の先輩)、前列右端は私。

マニトバ大学歯学部からもらった感謝を示すバッファロー像。カナダを代表する動物。

口腔だけでなく、全身の病気も勉強して欲しい

今はコンビニエンスストアの数より歯科の開業医の数の方が多いといわれています。そのため、厚生労働省は「歯医者を増やさない」という考えで、歯科医師国家試験を厳しくしています。今年の日本の歯科医師国家試験の合格率の平均は60%です。また、歯科大学によっては入学して、留年しないでスムーズに卒業して、国家試験に合格する人数がわずか30%にすぎない学校もあります。毎年3000人受けているのに厚生労働省はどうしているかというと、医師国家試験は資格試験なので60点を超えると合格です。しかし、歯科医師国家試験はそうではなくて、選抜試験のような状態になって毎年1000人くらいが落第します。それが毎年積み重なりますから、落第した歯科の浪人生はものすごく増加しています。国が歯科医師を増やさないという方針ですから、今から10年くらい経つと歯科医師の数は適正になるのか、あるいは減少することになると思います。

そんな状況の中で、現在、歯学部で学んでいる学生さんたちへ伝えたいことは、「口腔の健康は全身の健康に繋がっている」ということです。例えば、今は歯周病と糖尿病とは関連していると考えられています。そのため、口腔の病気だけでなく、全身の病気も合わせて勉強しないとだめです。そうしないと、義歯だけ作る歯医者になってしまいます。繰り返しますが、大切なことは「口腔に病気のある患者さんを診る」という心構えが極めて必要なのです。世の中の変化や技術の進歩にいつもしっかり対応しながら、幅広い分野の勉強をし、多くの患者さんの役に立つ歯科医師が増えることを期待しています。

今、振り返って自分の人生を考えると、アメリカのアラバマ大学に留学できたのも、大学のESS時代にアメリカ人のキーン女史とコールマン氏のお2人との出会いがあったからですし、カナダのマニトバ大学に行くことになったのも、バータランフィ教授の東京案内を代わりに引き受けたことがきっかけでした。その結果、アメリカのアラバマ大学に2年間、カナダのマニトバ大学に7年間、合計して9年間も北米に滞在していたことになります。 また、日本の大学で長い間教育や研究に専念できたのも、故石川梧朗教授や山本肇教授をはじめとする日本の大学の多くの先生方のご支援のたまものと深く感謝しております。愛知学院大学には30年間在籍しました。その間、愛知学院大学学院長の故小出忠孝先生をはじめ多くの先生方に多大のご支援をいただきました。ここに小出忠孝先生ならびに多く先生方に深く感謝を申し上げます。私の人生には「人との出会い」が大きく影響していたと確信しております。

インタビューを終えてインタビューを終えて

20代から30代にかけて、アメリカのアラバマ大学やカナダのマニトバ大学で、のべ9年間を海外で過ごされ、最後の7年間は教鞭も取られていた亀山先生。アトランタでは大阪毎日テレビ局のキング牧師のインタビューの手助けをされるなど、さまざまな武勇伝の持ち主でもいらっしゃいます。歯科における頂点に立たれながら、決しておごることなく、いつも穏やかでにこにこされている亀山先生には、周囲まで優しい気持ちにさせる不思議な力があります。現在は短大や複数の専門学校で病理学などの教鞭を取られ、また、訪問歯科のサポーターとして、お年寄りの口腔内のケアまでされています。「現場を知らなければ、若い人の指導もできないですから」とにこやかに語る先生に、頭が下がります。